走るひとたちの駅 / 時が止まった街 / 「新しい公共」と「まちの駅」 / 「まちの駅」がつながるということ / 小さな「まちの駅」と大きな「まちの駅」のいい関係 / どん・どん・つながるまちの駅 / 再び、「まちの駅」がつながるということ / 壁をこわす / 社会的共通資本 / コモンズとしてのまちの駅 / まちの駅についてのある誤解 / まちを元気にする薬? / 肝心なことは目に見えない / 「誰でもできる」と「ブランド」 / 甘木・朝倉「まちの駅」を訪ねて /
黒崎・まちの駅
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走るひとたちの駅
先月のことになりますが、1月9日に鹿児島県指宿市で行われた。「いぶすき菜の花マラソン」に出場しました。42.195キロ、フルマラソンです。毎年1月の第二日曜日に行われるこの大会。フルマラソンとしては年が改まって全国でもっとも早く行われるものということで、全国各地から約1万人のランナーが参加し、「冬なのにさすが南国」と思えるような黄色く咲き誇った菜の花を愛でながら走っていきます。
実は私はこの大会がこれで5回目。初出場の頃にくらべるとタイムは少しずつあがってきていますが、だいたいいつも早くもなく遅くもなくの4時間台。この大会だけは毎年必ず出場している楽しみなレースです。
しかしここのコースは決して楽ではありません。最初の10キロはシラス台地の丘陵地、次の20キロまでは池田湖から開聞岳の裾野までの緩やかなアップダウン。そしてハーフ地点以降は海岸段丘に沿って下ったり上ったりのかなり高低差のあるコースなのです。しかも、南国で菜の花が咲いているとは言え、そこはやはり1月上旬。風の冷たさも身にしみます。
それでも毎年楽しみに出ているのはなぜでしょうか。それは、ひとことでいうと「人の温かさにふれる」ことができるからです。42.195キロのコースは途中市街地だけでなく、畑や海岸など普段は人気のないところも走っているのですが、その沿線ずっとほとんど切れることがなく地元の方々が熱い応援をしてくださっています。しかも何時間も何時間も寒いのにそこにずっと立って、知り合いでもないまったくの他人を、誰彼なしに。
また、水分などを補給できる公式エイドステーションもあちこちにあり、どこでもボランティアの皆さんが「がんばって!」と声をかけながら、スポーツドリンクやふかし芋などを丁寧に手渡してくれます。でも、そればかりではありません。あちこちの集落では地元自治会の皆さんでしょうか、自分たちで朝から準備したぜんざいや豚汁などをランナーに振る舞ってくれるのです。タイムを気にしない私くらいのレベルのランナーは、そんなひとつひとつの駅に立ち寄って、ほっと一息つきながらご馳走になったりしています。
そこはランナーにとって格好の休憩場所。トイレも使え、地元の方々との会話もできる。そして「あたたかい心」を感じることができる。そこはまさに「まちの駅」。さらに寒い中一所懸命に応援してくれる皆さんひとりひとりが「まちの駅」と言えるかもしれません。いわば「走るひとたちの駅」。
そんなたくさんの「まちの駅」で、声援と助けを受けながら、コースごとに菜の花が飾られた陸上競技場にゴールしていきます。他のひとはどうかわかりませんが、私はたぶん、自分だけの力では到底42キロも走ることはできないでしょう。おそらく最後の10キロくらいは指宿の皆さんからもらった「あたたかい心」をエネルギーに変えて走りとおすことができたと思います。
どれだけ足が痛くても、どれだけ寒くても、どれだけ辛くても、黄色の花に包まれたゴールで思うのです。
「また来年も来たい」と。
― こんなところにも、「まちの駅」。
(2005年2月)
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時が止まった街
私は北九州市郊外ののんびりとした田舎に暮らしていますが、そんな田舎にも最近大きなバイパスが開通しました。そしてその道ができるや否や、両側に電器店やドラッグストアー、ファミレス等郊外型の店舗が文字通り瞬く間にできて、風景が見る見る変わってきています。この不況の中、どうしたことだろうと驚くばかりです。
でも今の日本では、極まれにこのように景気が良い所があれば、不景気で苦しんでいる場所はその倍もあります。それが各地のいわゆる中心商店街です。昔華やかだった駅前やバスセンターの前にあるそれら中心商店街は、今やほとんどの所が車社会と不況の影響をもろに受けてアーケードの中も人は疎ら、しかも営業中の店よりもシャッターがしまった店の方が多い、いわゆるシャッター通り。日中なのに妙に静かな街を歩くと、寂しい思いになります。
以前のことになりますが、福岡県八女市に県の仕事として行ったことがあります。仕事の内容は、その街の中心市街地の活性化をどう図るかを、地元商店街の方々、市と県の担当者、そして国土交通省から派遣されたアドバイザーと検討していこうというもの。この八女の街も昔は城下町として賑わった伝統ある街なのですが、やはり最近は郊外にできた大きなショッピングセンターに客を奪われ、福岡市一極集中の煽りも食って、次第に寂れていきました。しかし、地元はその衰退を何とか防ごうと必死になっていて、国の専門家のアドバイスを受けることとなったのです。
夜に予定されている地元商店街との検討会を前に、私たちはアドバイザーと一緒に街を昼間一日かけて歩きました。やがて日が西の空に傾いてきた頃、私たちはある古びた商店街に辿り着きました。それは、中心市街地の中では西のはずれに位置する本当に小さな商店街。名前は「土橋商店街」といいます。車道に面した入口から中に入るとL字型に曲がった十軒くらいの店が並んでいます。ただ開いている店はその半分もない、静まり返った商店街です。
一見、なんの変哲もない商店街ですが、私は頭上を見上げてしばし言葉をなくしました。アーケードがあるのです。それ自体は商店街なのだから当たり前なのですが、そのアーケードは何と木造なのです。そして三角屋根のトップの部分は塩化ビニルが使われていて、それが時の流れで赤茶けた色になっています。そして、そこから差し込む太陽光線がその赤茶けた塩ビの屋根を透過して、継はぎだらけの木の屋根を、とても暖かいオレンジ色に染め抜いていました。私たち以外に人がいないその静かな空間、そして頭上に広がる古びた木の暖かさ、そしてその暖かさを一層引き立てる舞台照明のような太陽光線。私がそのとき頭に浮かんだのが、「懐かしい」という言葉その一言だけでした。
私は子どもの頃を町工場があちこちにある下町で過ごしたのですが、その時分によく母や祖母に買い物に連れられていった市場がそのような木造のアーケードだったように思えます。頭の隅に残っていたその記憶が、この商店街に立って突然呼び戻されたのです。それで、懐かしさのあまりしばしそこに佇んでいました。私が子どもだった三十年ほど前はどこにでもあった木造のアーケードが、いつのまにかそっと消え失せて、そして時を越えて再び目の前に現れた。アドバイザーの方も同じ感想を持たれたようです。ただ、いつも日常的にその商店街を見慣れている市の担当者の方だけは、「こんなアーケードのどこがいいの」というようにきょとんとしていました。
一体全国に木造のアーケードをもつ商店街は今いくつ残っているのでしょうか。この商店街は今まで何の脚光も浴びずにきていました。もちろん、近くにある白壁の街並みは最近観光コースにもなってきつつありますが、この商店街はさすがに地元の人以外訪れる客もありません。しかし、ひょっとするとこれはとても貴重な「隠れた文化財」なのかも知れません。私は、この商店街を離れて歩いて市役所に戻る道すがら、「時が止まった街」というキーワードをこの商店街に名づけました。「時が止まった」という表現は、成長至上主義の時代ではあまり良い意味とはいえないものだったのかもしれませんが、食べ物もファーストフードからスローフードに戻る時代。今や「時が止まった」という言葉は良いイメージの言葉になってきたと思います。そこで、あえて「時が止まった」という表現を、この商店街に親しみを込めて使わせていただきました。この街の木造のアーケードは近代化の波に逆らって、あえてそのままで残ってきた、とても貴重な宝物です。「時が止まった街」、八女の土橋商店街。一見の価値ありです。
今月から八女市にも「まちの駅」ができると聞いて、この街のことを久しぶりに思い出しました。
(2005年2月)
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「新しい公共」と「まちの駅」
「新しい公共」という考え方があります。主にNPOや行政関係者の間で使われはじめた言葉です。この言葉にはまだ明確な定義づけがなされていないのですが、おおよそ次のように言われています。
「行政だけが公共を占有するものではなく、市民、市民団体、事業者、行政が、協働して創出し、共に担うもの」(1)(大和市市民活動に関する協働ルール検討会議2002)
これまで「公共」つまり「公(おおやけ)」は行政の専売特許でした。わたしたち市民も「公」に関わることは、すべて行政にお任せしていました。ゴミ収集しかり、道路の維持管理しかり。でも最近はわたしたちのライフスタイルも意識も大きく変わりつつあり、「公」のニーズも多種多様になってきました。そのようなニーズひとつひとつにとても今の行政では対応できないようになってきたのです。さらにその状況に追い討ちをかけるように、今はどこの自治体も財政難。公共事業や行政事務に回るお金は減りつつあります。もう行政にはすべての面倒を見る余裕がない、力がないのが現実です。
そんななか、「民だって公共(公)を担えるんだよ」という考えが生まれてきました。これが「新しい公共」。小泉内閣のスローガンである「民でできることは民に」と同じような意味です。でもここでの「民」とは主に民間企業を指すことに対して、「新しい公共」の担い手の主役はNPOや市民団体。公平性の原則に縛られた行政には手が届かない個別的なニーズへの対応には、小回りのきくNPOがふさわしいということで、NPOの存在意義が高まって、やがてそれが公共の一翼を担うようになりました。したがって、「新しい公共」という概念には担い手としてのNPOの存在が欠かせないのです。
しかし、果たして「新しい公共」を担うのはNPOだけでしょうか。
ここである人を紹介しましょう。福岡県瀬高町。そこに一軒の「まちの駅」があります。「酒の駅いまいし」。今石光明さん御夫妻が経営する個人酒店です。ところで、この今石さん。ただのお酒屋さんではないのです。趣味は「地域おこし」というほど、地域のボランティアに傾注し、お世話しているサークルは二十以上。独自に「今石会」という団体もつくり、ふれあいグランドゴルフ大会や、地域の清掃活動を行っておられます。また、自店のブランドとして「幸若舞」というお酒を販売し、その売り上げの一部で地元の伝統芸能「幸若舞」の運営に寄付をしたりと、八面六臂の大活躍。
さらに彼が考えているのが、国道沿いにありながら近くに車が休憩できる場所が少ないということで、それならばと今石酒店を改造し、駐車場を広げて前を通る観光バスにも気軽に駐車してもらおうということ。レストランや土産物屋でしたら直接売り上げに跳ね返るのですが、小さな酒店ではその効果も限定的。理由は瀬高町を通る人たちに快適な旅をしてもらいたいとのことです。
いわば「私家版・道の駅」。まさに今石さんは、これまで行政が担ってきた「地域コミュニティづくり」「観光振興」など公共的な仕事を自主的・主体的に行っています。これも「新しい公共」のひとつといえるでしょう。もっともこれは今石さんの並々ならぬ「まちを愛する心」があってこそだと思いますが、一市民でもこれだけのことができるのです。
今石さんのような「新しい公共」を担う一市民がそれぞれのまちで取り組んでいるのが、「まちの駅」です。やる気のあるひとが、自らやれる範囲で愛するまちのために人々をもてなすのが「まちの駅」だとすれば、まさに「まちの駅」も「新しい公共」の担い手にふさわしいといえるでしょう。
注(1) 大和市市民活動に関する協働ルール検討会議(2002)「新しい公共の創造に向けて『新しい公共を創造する市民活動推進条例(仮称)』に関する提言」
(2005年2月)
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「まちの駅」がつながるということ 地域連携と「まちの駅」(1)
「地域連携」。言葉としては特に新しいものではないのですが、行政やまちづくりの世界では近年とみに使われるようになってきました。いつから使われるようになったのか定かではありませんが、おそらく全国総合開発計画として1998年3月に閣議決定がなされた、「21世紀の国土のグランドデザイン」の中で、最も重要なキーワードのひとつとされたのがきっかけではないかと思います。
ところで、「地域連携」自体、抽象的でとらえようのない言葉です。ましてや「全国総合開発計画」ときくと、いっそう私たち一般市民には関係のないものだと思いがちです。しかし「全国総合開発計画」はこれからも国づくり、地域づくりの方向性が定められた計画ですし、「地域連携」はその中のキーワードとあっては、まちづくりに関わる皆さんは知っておくに越したことはない言葉です。そこで、このコラムでは何回かにわたって、この「地域連携」という言葉について、「まちの駅」の視点からなるべく具体的な例をあげながら、掘り下げていくこととしましょう。
その前に説明すべきなのは、「21世紀の国土のグランドデザイン」についてです。これは、1962年からほぼ十年おきに策定されてきた全国総合開発計画(「全総」と略されます)、その五次計画(五全総)の別称です。そもそもこの一連の計画はその名のごとく日本全国でどういった開発や国土の利用・保全を行っていくかの方針を定めたもの。全国レベルの「開発計画」ですから、新幹線や高速道路など巨額のプロジェクトを行うためのよりどころとなるものです。確かにこれまでの全総は国が主体となり公共事業として開発を進めていくことを中心においてきました。それに対して、五全総は「参加と連携」がメインテーマ。必ずしもこれからは国が主体でなく「多様な人々や組織の参加」と「行政単位の枠を越えた広域的な地域連携」で、言いかえると「みんなで、手をとりあって」、国づくりや地域づくりを進めていこうというものなのです。よって、この計画からは計画実施に関わる投資規模は示されていません。国だけで進めるものではないからです。
さて、ここで今回の主題である「地域連携」が出てきました。「みんなで、手をとりあって」の「手をとりあって」の部分です。ただ、「手をとりあう」ことが、どうして地域づくりを進めていく方法のひとつとなるのでしょうか。これに関して、五全総の本文中には次のようにあります。
「地域連携は、新たな地域発展の機会を創出し、地域が提供するサービスの高度化と効率的な基盤整備を可能とし、また、地域に共通する広域的な課題の解決等に効果を発揮し得るものである」。
よくわかりません。いったいどのように連携すれば「地域発展の機会が創出できる」のか、そして「課題の解決に効果を発揮」できるのか。ここに具体的な事例がないのが、「地域連携」という言葉が、抽象的でわかりにくいものとなっている理由だと言えるでしょう。
そこで「まちの駅」の出番です。ご存知のとおり「まちの駅」は行政でも民間でも誰でも設置できるまちの交流拠点。そしてその機能は休憩、案内、交流、連携の四つ。連携、つまり「地域連携」は「まちの駅」の得意とするところ。そこでは、主に市民が主体となって、草の根レベルが中心ですが、「まちの駅」間の連携が起こりつつあります。そこで「まちの駅」の具体的な取り組みの中から、様々な主体のうち主に市民レベルでの「地域連携」の実際の姿を見てみたいと思います。
このあと、二回に分けて二つのエピソードを紹介します。ひとつは比較的近い距離にあって、ただ規模は全然違うふたつの「まちの駅」の関係。ふたつの駅がつながることによって、どんな効果が生じたのでしょうか。もうひとつは、1,000キロも離れた町と町。そんなふたつの町が「まちの駅」でつながりあいました。いったいそこで、どんな連携が生まれ、どのように展開していったのでしょうか。
「まちの駅」がつながること。このことを通して、「地域連携」の可能性について考えてみることとします。 (つづく)
注)2005年2月現在、国土交通省において五全総に代わる次期国土計画の策定が検討されています。同省の試案では全国計画と地方計画の二本立てで、地方計画については国と地方双方が策定に参加することとなり、さらに名称も「国土形成計画」とし、「脱・開発」の方針が打ち出されています。2005年秋にも国土審議会で議論が始められ、2006年の計画策定をめざすとされています。
(2005年2月)
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小さな「まちの駅」と大きな「まちの駅」のいい関係 地域連携と「まちの駅」(2)
甘木・朝倉地域は福岡市内から車で1時間。のどかな田園が広がる、福岡県でも有数の農業地帯です。五つの市町村で構成されるこの地域で、2001年に「まちの駅」の社会実験がはじまりました。それまで全国で展開されてきた「まちの駅」は、公共施設中心で各市町村に1ヶ所ずつ程度。でも甘木・朝倉ではじまった「まちの駅」はそれとは全く違いました。ひとつの地域で21ヶ所。しかもほとんどが個人商店など小さな民間事業所が主体なのです。当初それは少し「まちの駅」の本流から離れたものと考えられていました。
しかしいつの間にか、この「甘木・朝倉方式」が全国のまちの駅のモデルと変わってきたのです。いったいどうしてでしょうか。なによりも取組みへの熱意が違ったのです。まちの駅になれば公的機関がつくるまちの駅パンフレットに載る、そしてそれを見た観光客が遠くから自分の店にやってくる。― 小さな商店にとっては大きなメリットです。そんな中から、やる気のあるまちの駅がたくさん出てきて、21の駅同士が自主的に連携をしはじめたのです。これは一般的に集客のメリットをなかなか感じない(本当は感じなくてはならないのですが)公共施設型のまちの駅ではなしえなかったこと。そのいくつかある「つながり」から、ひとつの事例を紹介しましょう。
九州横断自動車道甘木インターの近くに、「ぬくもり畑」という農産物直売所があります。ここは道の駅とは違い、プレハブ建ての民間の小さな直売所です。経営しているのは中村康治さんと富美夏さん。まだ20代の若い夫婦です。およそ3年前に脱サラして始めた事業ですが、その頃たまたま市の広報誌に織り込まれていた「まちの駅になりませんか?」というチラシを見たそうです。その時期は21の駅での社会実験が一定の成果をあげ、実行委員会がもっとまちの駅を増やそうということで公募をしていたころ。夫妻はすぐに手を挙げました。ちょうど直売所を誰でも気軽に立ち寄れるような場所にしようと思っていたからです。
そして「ぬくもり畑」は「旬の駅」としてまちの駅になりました。ところがやがて店の駐車場に大型バスが駐車するようになり、お客さんが次から次へとやってくるようになったのです。驚いた夫妻はやがてその理由を知ることに。近くにキリンビール福岡工場があります。工場内見学ができ、ビールの試飲もできるその敷地には、春はポピー、秋はコスモスが咲き誇り、年間約百万人の来場者がある一大観光地。実はそこもまちの駅「ビールの駅」なのです。規模はまったく違うもののどちらもまちの駅。「まちの案内人」がいて、情報ラックがあってというのは同じです。つまり、「ビールの駅」にやってきた団体客が「帰りにどこに行こう」となったときに、まちの駅パンフレットを手にとり、しかも「まちの案内人」である受付嬢にお薦めの場所を聞くと、すかさず「旬の駅が近くてお勧めですよ」と返ってくる。それで「旬の駅」に大型バスが次々にやってきたということなのです、
それで喜んだ旬の駅の中村駅長ご夫妻は、がぜんやる気が出てきました。近所の農家と契約して品数を増やしたり、さらに他の「まちの駅」に呼びかけてお菓子などそれぞれの商品を扱ったり。もちろん、「まちの駅」として、来た人を温かくもてなすことも忘れませんでした。こうやって、小さな商店が大きな施設と「まちの駅」でつながることによって、観光客の流れができ、経済的にもそして精神的にも活性化したのです。
でもここでがんばったのは、「旬の駅」だけではありません。「ビールの駅」も大規模な施設に関わらず、受付嬢の皆さんが「まちの案内人」であるという意識をしっかりもっていた。そして彼女らを指導するマネージャーの園田政義さんも「まちの駅」に惚れこみ、休日には自分でまちの駅めぐりをするという熱の入れよう。駅と駅とのつながりといっても、要はその中にいる人と人とが、同じまちの駅という意識でつながっていることによるのです。小さなレベルですが、これもひとつの「地域連携」。地域連携って、つまるところこういった心と心のつながりで成り立っているものだと思います。
さて、次回は少し大きな連携のお話。まちの駅を通して心と心が1千キロの距離を越えつながりあったお話をいたしましょう。(つづく)
(2005年2月)
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どん・どん・つながるまちの駅 地域連携と「まちの駅」(3)
「地域連携」。わかっているようで、実はよくわからないこの言葉。この連載では「まちの駅」を通して、地域連携について考えています。前回はそんな中でも小さな地域内での連携をお示ししました。これも地域連携のひとつの形ですが、厳密にいうと「地域内連携」と言うべきなのかも知れません。そこで今回はもっと大きな規模、というより遠く離れた地域同士がつながった事例をご紹介しようと思います。
今、全国には約四百のまちの駅があります。このうち北関東の栃木県大平町という小さな町にもひとつのまちの駅があります。「まちの駅おおひら」、別名「香秘と芸術と人の駅」。畑の中の小さな喫茶店がまちの駅になっているのです。芸術家夫婦が駅長をつとめるこのまちの駅は、毎日町内外のいろいろと楽しい元気な人々が集う場所。そんな中からある日、創作和太鼓のグループが生まれました。「夢現太鼓」といいます。練習場所をこのまちの駅に定め、当初地元若者中心であったこの夢現太鼓は、次第にいろいろなひとを巻き込みながら大きくなっていき、県内のあちこちで公演を行うまでになったのでした。
2004年5月。いつものようにまちの駅で練習をしていたところへ、一人の女性が駅を訪れました。まちの駅を応援する市民組織「まちの駅ネットワークとちぎ」の吉田恵子さんです。練習が終わって、夢現のリーダーが彼女に言いました。「まちの駅の盛んな福岡でこの太鼓を響かせたい」。彼女はその言葉に共感し、その場でまちの駅ネットワークふくおかの代表(筆者)に電話。協力を依頼したのでした。
そして筆者はすぐにあるまちの駅へ電話しました。そこは福岡県八女郡立花町白木地区の「すずしろの駅」。谷あいの小さな集落に建つ旧家。町の文化財であるそこが地元NPOで管理運営され、まちの駅となっています。駅長の田中眞木さんに、話の経緯と夢現と地元八女の太鼓との競演会を開催したい旨を説明。地元の負担がたいへんなので、受けてくれるかなと心配していたところ、二つ返事で引き受けてくださいました。
さっそく準備です。まずこの企画の名前を「どん・どん・つながるまちの駅」としました。まちの駅が太鼓の響きでどんどんつながるという思いを込めました。そして開催は8月末の土曜日と決定。準備期間は4ヶ月です。しかし主催が栃木、福岡、八女と離れているため、打合せもままなりません。さらに市民の力でやれるだけやってみようということでしたので、お金もほとんどありません。ただそんな中、立花町白木の皆さんは実によく動いてくれました。小学校に掛け合って、競演会場として体育館を借りてくれました。夢現太鼓のメンバーの宿泊場所として、農家民泊をやっている夫妻はただで泊まっていいよと言ってくださいました。でも、困ったことが。夢現太鼓が町に来る際、福岡空港から車で1時間半ほどかかるのですが、公共交通機関がほとんどないのです。そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのが、立花町役場でした。
なんと往復に町役場のバスを出してくれるというのです。しかも運転手さんつき。さらに、周りの町への広報も買って出てくれました。こうして、市民が中心になって動き、足らないところを行政が支援するという形で、この企画は進んでいきました。これは福岡ばかりではありません。栃木でも福岡までの旅費の一部を、大平町長さんの交際費で負担してくれたりと、次第に町全体で応援する形となってきたのでした。
そして夏が終わりに近づき、いよいよ本番。朝一番の飛行機で栃木から夢現太鼓とそれを支援する大平町の人々がやってきました。会場の白木小学校には、子供たちがトンパ文字で書いた歓迎のメッセージが飾られています。地元の皆さんは暑い中、駐車場の整理や昼食の準備。午後から小さな町の小さな谷に太鼓が響きあいました。やがて日が暮れても、交流会場では笑顔が絶えませんでした。翌日その笑顔は「帰りたくない」という涙に変わりました。立花町の皆さんへの感謝の気持ちもいっぱいまったその涙は、福岡空港まで続いていきました。
ほかに何もない、ただ「まちの駅」というだけで約千キロ離れた二つのまちとまちがつながった夏が終わりました。両町の人たちはその後も手紙などでの交流を続けていると聞いています。当日来られなかった大平町長も後で立花町長さんと文通をはじめたそうです。市民も行政も、こころでつながった二つのまち。「地域連携」って実はこんなに暖かいものなのだと思います。
ところで、秋になり立花町を大きな台風が襲いました。大木が倒れたり、果実が落ちたりと大きな被害がありました。栃木県大平町の皆さんは何とかしてあげたいと思ったそうです。でもあまりにも距離がありすぎて、何もできることがありませんでした。もどかしい思いが募っていたそんな時、新潟県で中越地震が発生。そこにもまちの駅はたくさんあります。「まちの駅はみんな仲間」。大平町の皆さんは、ボランティアの支度を整え、すぐさま三国峠を越えて被災地へ向かいました。 (つづく)
(2005年2月)
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再び、「まちの駅」がつながるということ 地域連携と「まちの駅」(4)
これまで「地域連携」について、まちの駅の取り組みの中から、以上ふたつの具体的な事例で考えてきました。前者の事例は経済的な結びつきからはじまって、心の結びつきへと育っていった例。そして後者のそれは心の結びつきの例。いわば経済的な連携と心の連携です。これらは相反するようですが、どちらも必要なものです。そしてどちらも切り離すことができないもの。なぜなら、経済的な連携だけでは「金の切れ目が縁の切れ目」でメリットがなくなった瞬間に終わってしまうし、かといって心だけでも長続きしない、続けることができないと言うべきかもしれません。
しかし、後者の事例についてはどうなのでしょうか。今後も心の連携だけで続いていくのでしょうか。実は後日談があります。そしてその中で経済的な連携も模索されています。このシリーズの最後にこのことについてお話ししましょう。
まちの駅おおひら。8月の福岡県立花町との交流でまちの駅がつながるということの意味を知り、中越地震のボランティアに駆けつけた大平町のみなさんのその後です。
さて、大平町の特産物はニラですが、そのニラを使って特産品ができないかと町のある人が考案しました。そしてできあがったのが、ニラ入りラーメン「ニラ美人」。麺にニラが練り込んであって、とてもヘルシーかつ栄養満点のラーメンです。このニラ美人を売り出していくこととなりましたが、個性的な商品ですので、なかなか既存の販売ルートにはのせてもらえない。そこで、まちの駅のネットワークを使って販売できないか。町の人はこう考えました。そして東京町田市にあるまちの駅「ぽっぽ町田」に話を持ちかけました。昨年の十月に宇都宮で行われたまちの駅全国フォーラムで、まちの駅ぽっぽ町田の駅長である松井さんが、全国のまちの駅をつないで物産販売を行いたいという構想を語っていたからです。ここで再びまちの駅ネットワークとちぎの吉田さん。彼女が松井さんへ話をもちかけ、彼も快く引き受けていただいたということです。その結果、町田の中心部にあるビルの交流広場で栃木のニラ美人が販売されています。このように、まちの駅のつながりは心のつながり、また顔と顔がわかる範囲のつながりでもあります。顔がわかる信頼関係で成り立っているため、話が早いのです。
さて、再び「まちの駅おおひら」とそこに集まる人々に話を戻しましょう。彼らが中越地震発生直後に被災者支援に向かったという話はしましたが、その後栃木に戻ってきてからも息の長い支援ができないかと考えていました。そのとき思ったのが、心の支援ができないかということ。地震の爪痕が残る中で、辛く厳しい冬を越した中越の人々に何かほっとできるようなプレゼントができないかと思ったそうです。
ところで、彼らには以前から全国のミュージシャンとのネットワークがありました。そこで、それを活かして音楽ライブを長岡で行おうという企画が持ち上がりました。場所は長岡市の「まちの駅ながおか」。案内人をつとめる高橋秀一さんも、宇都宮のフォーラムで栃木のまちの駅の皆さんと友達になっていましたので、ここでも話はトントン拍子に進みました。題して「花まつりフォークライブin長岡」。花祭りより少し前の3月27日に行われます。そして、ここでもニラ美人が登場。会場前に設けられるまちの駅連携物産展で、ニラ美人やその他全国のまちの駅からの寄せられた、「これぞ(わが地元の特産)」という商品を販売して、まちの駅をPRするとともにその収益を被災者への支援にあてようという企画です。さらにすでにこの企画を「まちの駅これぞ便」として全国に拡大できないかという試みもあり、これから夢と事業が拡大していく予感がします。
以上のようなふたつの連携の姿、経済的な連携と心の連携。どちらか一方が先であったとしても、まるで二人三脚のように、やがて歩調を合わせながら進んでいく。そしてまちとまち、心と心がつながっていく。これがまちの駅流の「地域連携」のあり方だと言えます。しかし、これは一般に語られる「地域連携とはどんなものか」という問いに対する答えのひとつではないかと、わたしには思えます。いずれにしても、その答えはまちづくりの現場にあるというのは確かなことですね。
(地域連携と「まちの駅」 おわり)
(2005年3月)
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壁をこわす
NHK で「難問解決!ご近所の底力」という番組があります。毎週一つの自治会など地域住民の団体が登場し、そこが抱えている問題をその住民が全国各地での先進的な取り組みを参考にしながら、みんなで話し合って解決していくという番組です。全国をみるといろいろな知恵があるのだなと感心しながら見ていますが、それらの知恵が積み重なっていくことが、「底力」となるのでしょう。
ところで、まちの駅にも全国で展開されている事例を見ていくうちに、地域の様々な課題を解決するような効果があることがわかってきました。
例えばまちの駅になることによって、これまで自分の店のことだけを考えていた商店主が、まち全体のことを考えまちづくりをするように意識が変わったり、まちの駅という共通項だけで、遠く離れたまちとまち人と人との連携ができたり。このようにまちの駅は、結構いろいろなまちや人に対して、様々な効果を与える力があります。いわば「まちの駅の底力」。ところでいったいその「底力」の源泉は何でしょうか。
わたしはそれは、いろいろな面で「開かれている」ということだと思います。まちの駅は道の駅と違って官民を問わず、誰でもつくることができます。また、様々な立場の人が集まって、既存の組織にとらわれずに新しいまちづくりをおこすことができます。さらにはまちの駅同士のつながりで、遠く離れた他の地域とも仲良くなることができます。これらはすべて「開かれている」ということで可能になることです。
それに対して実際のまちづくり活動において、この「開かれている」というのは意外と難しいものです。そこにはいろいろな「壁」があります。
まずは意識の壁。これまでのまちづくりは狭い地域の限られた組織での取り組みが中心です。自治会、商店会組織など知らず知らずに仲間内でこぢんまりとまとまり、そこにはいわゆる「よそ者」はなかなか入ってくることができない世界となってしまっています。
しかしまちの駅は誰でも立ち寄ることができる場であり、そこではやる気さえあれば誰でもまちづくりの中心的存在になることが可能です。
また地理的・時間的な壁もあります。都市のサラリーマンは一般に長距離通勤。朝早く家を出て帰ってくるのは夜遅くなので、地域での時間が確保できないということから、そういった立場の人たちがまちづくり活動に入っていくきっかけがなかなかつかめません。
しかし、ここでもまちの駅は彼ら彼女らに門戸を開きます。もちろんまちの駅になること自体はできませんが、応援団として空いた時間だけ関わることができます。それでも難しければIT
を駆使してネットワーク上だけで応援することもできます。
さらに制度の壁というのもあります。例えば道の駅をつくれるのは公共団体だけ。誰でも勝手につくることはできません。でもまちの駅は一定の要件さえ満たせば誰でも自由につくることができます。
以上のように「開かれた」まちの駅にはこれらの壁をこわす力があるのです。
冒頭の「難問解決!ご近所の底力」でも問題解決の糸口になるのは、まったく知らない土地で取り組んでいる事例の数々です。つまり様々な壁がこわれたところから、新しい考えを持った人々がやってきて、新しい風を吹かせてくれます。そしてそれが地域のいろいろな課題を解決するきっかけになります。地域を変えていくには、壁をこわすことが方法の一つ。壁をこわす「底力」をもったまちの駅には、大きな可能性があるようです。
(2005年4月)
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社会的共通資本 コモンズとしてのまちの駅(1)
国の内外を問わず、これまでの経済発展は便利な生活等私たちに多くのものをもたらしてくれました。しかしその反面、発展により失われつつあるものもたくさんあります。例えば、破壊される自然環境、衰えていく伝統的な産業や文化。また都市化の中で崩壊していく地域コミュニティなど。
そのような中、行政はその役割としてこれらを守っていこうとしてきました。が、これら守るべきものが多様化してきたことと、財政難が続く中ですべてに対応することができなくなってきています。
しかしこれらは私たちにとって非常に大切でかけがえのないものであって、誰かが守らなければならないものです。そこでこれから二回にわたって、その守るべきものはなにか、いったい誰が主体となってそれらを守るべきなのか、さらにはそこでまちの駅がどのような役割を果たしうるのかを考えていきたいと思います。
さて最近、「社会的共通資本」というキーワードが語られはじめています。その考え方は米国の経済学者ソースティン・ヴェブレンが唱えた新しい経済のあり方の中にあるものですが、わが国では宇沢弘文氏によって紹介されています。
宇沢氏によればその定義は、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」1
であるとされています。
具体的には、これは三つの要素に分けられます。まずは海、川、山、森林などの「自然環境」。次に、道路、上下水道等の「社会基盤」。三つ目は、教育、医療、司法等の「制度資本」。これらを総称したのが、「社会的共通資本」といえます。少々乱暴ですがこれを優しい言葉で言い換えると、「みんなの大切なもの」と言えるのではないでしょうか。
これらは国家など行政が完全に管理したりできるものではありません。もちろん、道路など最低限の管理はできるでしょうが、それさえも使うのは市民であって、ひとりひとりのマナーに任せられています。要するに「みんなのためにみんなで使うもの」なのです。
またこの中には山や森、教育(学校)や医療(病院)など企業(法人)や個人の所有が認められているものもあります。だからといって、その所有者が何でも勝手にやって良いわけではありません。ですから誰かが管理して守っていかなければなりせん。例えば川や空気、汚し放題だとみんなが困ります。
では、社会的共通資本の管理をするのは、行政でもなく、ましてや企業・個人でもないとすると、いったい誰がすべきなんでしょうか。「公」でもなく、企業などの「私」でもない、第三の存在。公を第一セクター、私を第二セクターという呼び方がありますが、その言い方に沿えば「第三セクター」となります。しかしこの場合は行政と企業との共同出資で設立された法人のことではなく、NPO
であったり、何らかの公共的なミッションをめざす団体です。あえて漢字一文字に置き換えると「共」となります。
さて、次回はこの「共」というべき組織について、さらにはそれとまちの駅との関係について考えてみたいと思います。このことについて考えていくことは、これからの地域づくり、まちづくりの基本的な方向を示すのではないかと思うからです。
(2005年5月)
注1 宇沢弘文「社会的共通資本」(岩波新書)
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コモンズとしてのまちの駅 コモンズとしてのまちの駅(2)
前回は社会的共通資本というキーワードについてお話ししました。これはひとことで言えば自然環境など「みんなの大切なもの」となりますが、今後これをいかに守って、適正に使っていくかということが重要となってきます。また、それを管理するにふさわしい主体は、公でも私でもなく、言わば「共」というものではないかというところまで述べまし
た。さて、議論をさらに進めていきましょう。
まずはここで社会的共通資本とともに語られるもうひとつのキーワードを紹介します。
「コモンズ」です。ここで「コモン(common)」とは、「共通(共有)の」という意味を持つ英語の単語ですが,「コモンズ(commons)」と言えば、近代以前のイギリスで牧草の管理を自治的に行ってきた制度で、わが国でも入会地、共有地として存在してきました。1
つまり限られた資源を、その土地の人々だけで持続的、安定的に管理していく制度です。
これは限定的な概念ではありますが、先に述べたように、公でも私でもない「共」と形に最も近いものではないかと思われます。よって、社会的共通資本を管理していくにふさわしい主体だと言うことができます。
しかしここにあるコモンズはあくまでも伝統的なコモンズ。上で「限定的な」と言ったのはそういう意味です。これは純粋にその地域の人だけ、いわば閉鎖的な社会で成り立っていたしくみ。言い換えると「よそ者」を受け付けませんでしたし、よそ者が入る余地がないものでした。狭い地域の周りに高い壁がはりめぐらされている状態です。
ただ、現代のように交通機関も情報技術も発達した世界では、ある土地に寄せる思いというのは、必ずしもその土地の人だけのものでもありません。例えば都会に住むひとが、自分の身の回りの環境でなくても山里の自然は何よりもかけがえのないものだと思い、山里保全のボランティアに参加したりします。このように現代のコモンズには狭い地域の周りの高い壁はふさわしくありません。また、このときコモンズは公でも私でもありませんが、山里の保全に関わるひとは本来私的な存在ですが、やっていることは公的なことです。
よってこれからの現代のコモンズの定義としては次のように言うことができます。
「ゆたかな社会に必要な大切なものを自らの思いをもとに生み出し、育み、あるいはその機能が充分に生かせるように管理、維持し、それぞれの地域的、文化的環境に応じて、市民の生活にもっとも適したかたちにするための協働の仕組み」2
であり、「これからのコモンズは同じ目的を共有する人々が既成の組織や地域の枠をも超えて協働することができる未来志向の”開かれたコモンズ”」3 といえるでしょう。
そして、そのような新しいコモンズは、市民ひとりひとりが主体となってつくっていくものであり、かつコモンズは組織としては公でも私でもないのですが、それを構成する個々人は私的であり、同時に公的な存在でもあります。
ここでようやくまちの駅が出てきます。もうお気づきと思いますが、以上のようなコモンズの概念やそれを支える人々の位置づけは、まさにまちの駅のそれと同じ。まちの駅はまさにコモンズのモデルの一つとして、そういった面からの研究もなされるべきではないかと思います。
今回の二回のコラムでは、具体的にまちの駅がコモンズとしていったいどうやっていったらよいかということまでは十分に言及できませんでしたが、これからコモンズという位置づけでまちの駅をとらえ直し研究していくことが、まちの駅の社会的意義を明確にすることにもつながるのではないかと思います。
(2005年5月)
注1 コモンズ研究会http://freett.com/commons/about.html
注2 長野県総合計画審議会最終答申「未来への提言~コモンズからはじまる、信州ルネッサンス革命~」(2004 年3 月)
注3 同上
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まちの駅についてのある誤解
まちの駅についていろいろな人とお話をしていると、様々な意見に出会います。そんな意見の中にはなるほどなと感心し、ヒントとしていただいたりすることもありますが、中にはまちの駅について誤解をもってらっしゃるなと感じる意見もあります。今回は、そんな誤解のひとつを紹介しましょう。
「まちの駅は全国フランチャイズだから、(まちの駅ができると)まちの個性が失われる」。以前複数の方からこう言われたことがあります。地域で昔からまちづくりのリーダーとしてがんばってこられた方、まちづくりについて独自の考え方を持っている方に言われた言葉です。「フランチャイズ」。全国共通のマークを店先に掲げるまちの駅は、確かにコンビニチェーンのように見えるかもしれません。
しかし、実際にまちの駅に行った方はおわかりだと思いますが、全国共通の仕様なのはマークだけ。そのほか、トイレを使わせてあげて、休憩させてあげて、まちの案内人がまちのことを語ってあげるという最低限のルールはありますが、それとてマニュアルで「こうしなさい」と言っているものでもありません。つまり各まちの駅の自主性に任せられているのです。さらに「お菓子の駅」や「陶芸の駅」など、その駅独自のテーマが前面に出ている駅もたくさんあります。
例えて言うと、まちの駅という共通の「劇場」はあるけれども、そこでは演劇やオペラや能など様々なものが演じられている。そういうことだと思います。大切なのはいかに個性的に演じるかということ。そのように考えると、上のような意見はまったくの誤解であることがわかると思います。
ここで二つのまちの駅を紹介します。福岡県芦屋町のまちの駅「手づくり花の駅」と「わらの駅」です。前者は寒冷紗という農業用の網を使った創花「フレール・クレール」の教室で、これは主宰の山田さんが自ら開発したもの。後者は八朔の馬という郷土玩具を後世に伝えていこうとする保存会で、井上さんという方が地域の方々と立ち上げたものです。両者とも拠点となる作業場・販売所がまちの駅になっています。片や新しい創作芸術、もう一方は伝統的なものという点では両極端ですが、どちらも芦屋町オリジナルなものという点では共通しています。
山田さんも、井上さんも、芦屋のまちをこよなく愛す女性。まちの駅になった理由は、「狭いまちの中だけでまちづくりを考えても行き詰まってしまう。まちの駅になって、外の地域とつながることによってそんな閉塞感を打ち破っていきたい」とのことだそうです。
彼女たちのように、自分のまちの独自性にこだわっていても常に意識は外にひらき、新しい風をいれることによってまちに活力を与えていこうと考えているまちの駅はたくさんあります。まちの駅はそのための「道具」なのです。
とすれば、まちの駅は決して「まちの個性を失う」ものではないということは明らかです。それどころか、まちの駅でまちを「ひらく」ことによって、まちの個性はさらに輝きを増してくると思います。「ひらかないまちづくり」に未来はありません。
(2005年5月)
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まちを元気にする薬?
「まちの駅で街の活性化を図りたい」。
これからまちの駅に取り組んでみたいとおっしゃる方々から、よくこんな言葉を聞きます。またそんな地域に出かけていって、福岡県甘木・朝倉地域でのまちの駅の取り組み事例をお話ししますと、講演の後こんな声をいただくことがあります。
「『成功事例」としての甘木・朝倉まちの駅を視察したい」。
どちらもわたしは否定はしませんし、特に後者の「視察をしてみたい」については、「百聞は一見にしかず」。ぜひとお勧めしているところです。しかし、前者については、まちの駅に取り組んだら「すぐに」まちは元気になる、まちづくりの特効薬であるというニュアンスで言われる方もいらっしゃいますが、これは誤解ですし、後者については決して甘木・朝倉は『成功事例』ではないと思っています。
実際に甘木・朝倉まちの駅を訪ねてみるとわかるのですが、お客さんがまちの駅だからと言って大勢集まっているわけでもなく、そんなにまちの駅が一般市民に認識されているわけでもありません。ここでまちの駅の取り組みがはじまって5年目になりますが、それ以前に比べてまちを歩く人の数が外見上目立って増えたということもありません。そういうことから考えると、『成功事例』というにはまだ遠い状況です。
しかし、まちの駅には効果がないのかというとそれも間違いです。確実に表れているのは意識の変化。特にまちの駅をやっておられる駅長さん・駅員さんに顕著ですが、皆さん一様にまちの駅になって変わったこと、それは「まちのことを考えるようになった」ことだと言われます。それまでは一商店主の立場から「お店ののれんをくぐってくるお客さんはその店のお客さんとしかとらえなかったけれど、まちの駅になってからはこの地域を訪ねてこられたお客さんとしても見ることができるようになった」と駅長さんたちは口々におっしゃいます。この変化はまちの駅による大きな効果です。
そして、5年目に入った甘木・朝倉地域ではまわりの市民の方々にも着実にまちの駅が認識されています。先日あるまちの駅を訪ねたときに、どうしてまちの駅を始めたのですかと、駅長さんに聞きました。そのときの答えは次のようなものでした。
「お客さんから、『どうしてここはまちの駅になってないんですか』と聞かれたからです」。
継続は力なり。永く続ければ着実にまちの駅が知られていきます。そして商店主さんたちの意識の変化をまちの人々がきちんと認識してくれ、やがて応援してくれるようになります。そうなれば、街(中心市街地)は再び市民のコミュニティの場となり、ものを売るだけの大型ショッピングセンターとは別の良さで十分生き残っていけるのではないかと思います。
まちの駅は、新しい再開発ビルをつくったり、街路をきれいにしたり、駐車場をつくったりする「まちづくり」とは違うもの。薬に例えると、それらのように即効性はなく、ゆっくりですがしかし着実にまちの体質改善をしていく、「漢方薬」のようなものだと言うことができるでしょう。
(2005年5月)
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肝心なことは目に見えない
まちの駅についてお話しする際、いろいろな質問をいただきます。その中で特に自治体関係者から多いのが、次のような内容です。
「まちの駅をやるとどんな効果があるのか。数字で示してほしい」。
わたしも自治体職員のはしくれですので、それは大事なことだとよくわかります。それぞれの自治体でまちの駅に取り組むための予算を新たに獲得するには、財政当局に事業実施の効果を説明しなくてはなりません。そこで、わたしもできるだけ説得力のある数字でお示ししようと思い、まちの駅に取り組んできたある地域の観光入込客数調査(都道府県単位で行われています)を提示し、まちの駅を始めた年度から伸び率がアップしていると説明してきました。質問された方も、そのデータを聞くと十分納得され喜んで帰って行かれます。
しかし、わたしは最近それをやめることにしました。
どうも無理があるなと思ったからです。観光入込客数はその地域における観光施設利用者、宿泊者等のデータにより推計されるものですが、すべての施設を調べるわけにはいきませんので、ある程度選ばれたところの数字を積算したものとなります。そのためかなり概算での数字となっています。そんな中、まだ小さな取り組みであるまちの駅がどれほど影響を及ぼしているのでしょうか。観光客にいちいち「あなたはまちの駅を目的に来られたのですか」とアンケートを採るわけにはいきませんから、それを正確に出すことは不可能ですが、わたしは正直なところ及ぼす影響はほとんどないと思うようになりました。ある地域の伸び率があがったのも、おそらく他のいろいろな要素が複雑に絡み合ってそうなったのでしょう。
それでは、まちの駅をやっても何も効果はないのでしょうか。それも違います。フツーの商店がまちの駅になって一番変わるのは、お店の店長さん、店員さんの意識です。福岡県甘木市にあるまちの駅「どらやきの駅」の古賀博子さんが次のようにおっしゃったことがありました。
「お店に来られた方を、今までは自分の店のお客さんと思って接していましたが、まちの駅になってからは、このまちに来られたお客さんだと思うようになりました。そのお客さんにとっては自分はまちの代表。市長さんよりも誰よりも自分はまちの顔なんです。だから一所懸命笑顔でおもてなしをしています」
このように「フツーの市民をまちづくリストに変える」という力がまちの駅にはあります。ひとつひとつは小さなことですが、市民ひとりひとりの意識の変化が積み重なれば、やがてこのまちは魅力あふれるまちへとなることでしょう。これがまちの駅の効果です。
確かにこのことは数字には現れませんが、だからといってそれを無視したのでは、肝心なことを逃してしまうように思ってやみません。
「肝心なことは目には見えないということだ」。(新訳「星の王子さま」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ/作倉橋由美子/訳)
目には見えないけれど、でも肝心なこと。これをまちの駅からひとつひとつ見つけ出して、物語として伝えていく。これがわたしたち「まちの駅応援団」の仕事だと思います。
(2005年9月)
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「誰でもできる」と「ブランド」
「まちの駅は誰でもできる」。これがまちの駅の良いところです。
これまでのまちづくり、特に商店街の活性化を目的としたまちづくりは、商店街組織に入っていたり、そもそも何かモノを売る商店であったりでなければ、その主役になることはできませんでした。そんな「壁」をなくし、やる気があれば誰でも手を挙げて自分のお店や施設をまちの駅にすることができる。そんな敷居の低さが、現在全国各地でまちの駅が広がっている理由のひとつであろうと思います。
しかし今、考えないといけないことがあります。
それは、まちの駅の「ブランド」についてです。グッチやエルメス等の誰でも知っているいわゆる「パワー・ブランド」というわけではありませんが、最近まちの駅がオープンするとすぐに地元新聞に紹介されるようになってきて、それなりのブランド-まちの駅と聞いて、「ああ、あれか」とイメージできるもの-ができてきたのではないかと思われます。
つまり、もうまちの駅はブランドをつくっていく段階ではなく、ブランドを守る時期にきているのです。
では、ブランドを守るためには何が必要なのでしょうか。経営学者の片平秀貴氏によれば、ブランド(氏はパワー・ブランドについて述べています)の三大法則とは「夢の法則」「一貫性の法則」「革新性の法則」である1
とされており、さらにこの中で「一貫性の法則」が最も重要だとあります。つまり、ぶれない、動かない、しっかりした背骨があって、たとえ様々に進化していっても、その背骨の存在がわかれば誰がみても「ああ、あれか」とわかる、そんな一貫性です。まちの駅にとってこの背骨にあたるのは、誰でもトイレが使えて、休憩できて、まちの情報が手に入って、そして駅長さんが笑顔でおもてなしをしてくれる、そんな基本的な機能だと言えるでしょう。
しかし今あちこちで増えつつあるまちの駅には少数ですが、看板は掲げているものの、この基本的な機能のいくつかが欠けているところが出てきています。
確かにまちの駅は誰でもできます。ただそれには上に述べた基本的な機能は少なくともなくてはなりません。そうしないと、せっかくまちの駅の駅長さん、駅員さん、そして応援団のひとりひとりが地道につくりあげていったブランドが崩れることになりかねません。
ブランドをつくることは難しいものですし、時間もかかるものです。しかし、ニュースで報じられたいくつかの企業の例を思い出すだけでも、ひとつの事件をきっかけにそれまで盤石と思われていたブランドイメージがいとも簡単に崩れ去っていったことがわかるでしょう。
まちの駅は、立ち戻るべき原点をもう一度見つめ直すところにきているのではないか。
わたしは今それを強く感じています。
(2006年6月)
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甘木・朝倉「まちの駅」を訪ねて
福岡県のほぼ中央。福岡空港から車で約1時間南に下ったところに、甘木・朝倉という地域がある。ここは朝倉市・筑前町・東峰村の三市町村で構成されている。北と南はなだらかな山地にはさまれ、東から西にかけては筑後川に沿って緑の田園が広がっている。
日ざしがまぶしい初夏の一日。私はこの地域を訪ねた。目の前の水路には清らかな水が流れ、あたりをすがすがしい風が吹き抜けている。そんなのどかな空気につつまれたまちの、何の変哲もない普通の商店の入口に、黄色いのぼりが立っているのが目にとまる。
それがこの地域で「まちの駅」を示すサインである。
「まちの駅?」。多くの読者は道の駅と間違えて、こう尋ねるかもしれない。しかしまぎれもなく「まちの駅」である。道の駅とは違う。
まちの駅の多くは普通の商店だ。商店がまちを歩く人が気軽に休めるスペースを提供し、トイレを貸してあげている。また店の一角には情報ラックがあって、そこにそのまちの観光パンフレットやマップが並べられている。その取組が、まちの駅なのだ。道の駅のように、大きな建物を建設するハード事業ではない。
基本は既にあるものを「そのまんま」使うということ。トイレだって、休憩するための椅子やテーブルだって店にもともと備わっているものをお客さんに使ってもらうだけ。観光パンフレットやマップにしても役場がつくったものを置いているだけ。あとは店長や店員さんたちが「駅長さん」となって、笑顔でおもてなしをしてあげる。時にはそのまちの観光案内や歴史などを語ってあげる。たったそれだけで、もうそこは立派な「まちの休憩所」や「観光案内所」になる。お金はほとんどかからない。理屈もいらない。
もちろんまちの駅になるのは商店でなくても良い。ひとが気軽に訪れるところであれば、レストランであろうが、福祉施設であろうが、役場であろうが、やる気があれば誰だってどこだってなれるのが、まちの駅である。
まちの駅は東京のNPO法人地域交流センターにより地域連携の拠点として考案された。1997年度から山梨県、静岡県等において実験的にはじめられた当初は、主に市民ホールや図書館など公共施設がまちの駅になるという形で行われた。しかし行政主導で行う当初の取組はあまり進まなかった。
動きはじめたのは2001年。この福岡県甘木・朝倉地域でまちの駅がはじまってからである。仕掛け人の上野春樹さんは朝倉市観光協会(当時:甘木・朝倉広域観光協会)の常務。彼はまわりにくらべて有名な観光地があるわけでもないこの甘木・朝倉に、何とか観光客を引き寄せる魅力をつくり出したかった。
「ここには何もないから」といって地域づくりをあきらめてしまう例がよくあるが、彼は違った。
「ここには何もないが、ひとはいる。ひとが輝けばまちも輝く」(ついでに彼のいちばんの口ぐせは「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗をかけ」)。
そこで、上野さんは役所の協力を得て「あなたの店もまちの駅になりませんか」と全戸にチラシを配布した。たちまち20の事業者が申し込んできた。まだまちの駅がまったく知られていない頃である。ある人は新しいことへの興味で、ある人は地域貢献への熱意を持って、またある人は宣伝になって来客が増えるかなという「下心」を持って。理由は様々だったが、とりあえず全部がまちの駅になった。
やがて興味本位の人も、下心の人も、やっているうちにまちの駅の魅力にはまっていった。普通に仕事をしながら、でもちょっとしたプラスアルファのおもてなしで、お客さんが喜んでくれる。その心地よさに惹かれていった。一年が経過し、翌年にはその数は45になった。ほとんど口コミでその翌年には50になった。そして今では64の駅長さんたちが、それぞれのまちで「輝いている」。
それを聞きつけて県内外から官民問わず、視察団が続々とやってくるようになった。やがてここを手本として、「甘木・朝倉方式」のまちの駅が全国で動きはじめた。当初は親元である地域交流センターからも「異端視」されていた民間主導のまちの駅が、甘木・朝倉の駅長さんたちひとりひとりの輝きにより、いつのまにか「スタンダード」となっていったのである。なお現在常設のまちの駅は全国700ヶ所を超えている。
説明が長くなったが、今私がいるのは朝倉市の中心部から車で20分ほど行ったところ。さきほどからあたりにはかすかに甘い香りが漂っている。香りのもとは小さな菓子店。菓子工場と店舗を兼ねた「あさくら堂」だ。黄色いのぼりが立っているここは、もちろんまちの駅であるが、菓子店だけに「菓子の駅」と名乗っている。中に入ってみよう。
店内はまちの駅らしく広い休憩スペースがあり、テーブルの上には隣の工場からのできたての菓子が試食用として並んでいる。またコーヒーメーカーには「自由にお飲みください」と張り紙がなされている。ここは福岡市から大分県日田市に抜ける国道沿いにあるが、そんな旅の途中に立ち寄ったお客さんにゆっくりと休んでもらいたいとの配慮である。
駅長の井福勝義さんはこの店の二代目。父親から店を譲り受けたとき、彼はここを地域のひとに喜んでもらえるような店にしたいと考えていたそうだ。そんな矢先に出会ったのが、まちの駅。なんだかおもしろそうと、すぐに飛びついた。やがて近くにいくつもまちの駅があることに気づいた。そこで彼は他のまちの駅に呼びかけた。
「まちの駅つながりで、いっしょに餅つき大会をしましょう。せっかくなので、地域のひとや留学生も招待して」。
大成功であった。地域のひとに喜んでもらいたいという、彼の夢が実現したのだ。そして井福さんは、地元特産の富有柿を使ったお菓子を開発したり、とにかくこの地域が豊かになることが自分の幸せと思うようになった。今、彼には次なる夢がある。いつかこの工場を広げて、子供からお年寄りまで楽しんでもらえるような、お菓子のテーマパークをつくることである。
続いて同じ朝倉市の「どらやきの駅」に行ってみる。「古賀乃屋」という、どらやきの専門店である。お店を営んでいるのは古賀三夫さんと博子さん。夫婦で「駅長さん」である。以前は甘木駅前で小さな和菓子店を開いていたのだが、数年前あるテレビ番組の企画でご主人の三夫さんが京都の老舗で修行するという模様が放送されてからは、お店が大繁盛。たくさんのお客さんが押し寄せて、周りの人々に迷惑をかけてしまいった。それで今の場所に新しい店を構えたそうだが、そのときのお詫びに何か地域のためになることができないか、そう思ってまちの駅になったとのことである。
そんなふたりがまず心がけているのは、トイレを常にきれいにしておくこと。「この辺には公衆トイレがないから、皆さんにとても喜んでいただいています」と三夫さん。
「今日は暑いからのどが渇くでしょう」と、博子さんが満面の笑みで冷たいお茶を出してくださった。水出し茶とあって実にまろやか。ちびりちびりといただきながら、「まちの駅になってお客さんへの接し方が変わりましたか」と尋ねてみる。
「以前は自分の店のお客さんとして接客していましたが、まちの駅になってからは、この地域へのお客さんだとまず思うようになりました。皆さんにとって自分は地域の代表選手。だから恥ずかしくないようなおもてなしを心がけています」。と博子さん。
隣では三夫さんが真剣な表情でどらやきを焼いている。静かな店内にどらやきの焼ける音が時おり小さく「ジュ」と。香ばしい匂いとほのぼのとした空気が店内に満ちていた。
お礼を述べて、外に出る。「地域の代表選手」。「恥ずかしくないようなおもてなし」。ひとつひとつの言葉が、心に残る。
三つ目は「洋食の駅」に行ってみよう。朝倉市から筑前町に入るとすぐ、白い三角屋根の建物に黄色いのぼりが見えてきた。洋食の駅「自然工房レストラン南」である。ここはその名のとおり、自然の素材にこだわった料理を楽しむことができるレストランだ。しかし入口には池がこしらえてあり、中に入ってすぐ、レジの前にもメダカがいる水槽やベンチなどがあって、食事の客以外でもちょっとした休憩をとることができる。また店内は至る所に自然の流木やかずらなどを使った飾りつけがなされていて、暖かい雰囲気に包まれている。
これらはすべてこのレストランのシェフであり、「駅長」である南隆晴さんの手づくり。アウトドア派の南さん。休みの日は趣味の渓流釣りの傍ら山で材料を集めてきては、それに細工をほどこして、少しずつ店内を飾りつけている。
手先が器用な彼は、紙切り細工の名人でもある。光沢の黒紙にハサミを入れたかと思うと、あっという間にカブトムシやクワガタ、はては小さなアリやハエまでも次から次に生み出していく。「まるで魔法みたい」。子どもたちは大喜びだ。てんてこ舞いの食事時はさすがに無理だが、少しでも時間ができると南さん、にこにこしながら厨房から出てきてくれて、その技を披露してくれる。
自然が大好きな南さんに、まちの駅をはじめたわけを尋ねてみる。
「わたしはよそから通いながらこの町でレストランをさせてもらっています。だからこの町に少しでもとけ込みたくて、まちの駅ののぼりを立てました。今、この町を案内できるように猛勉強中です」。
はにかんだ笑顔から、心地よい風が吹いてくるような気がした。
最後に、甘木・朝倉まちの駅の仕掛け人、上野さんを訪ねる。彼のいる朝倉市観光協会は、第三セクターである甘木鉄道の終着駅、甘木駅の構内にある観光案内所。そこももちろんまちの駅「ほとめきの駅」だ(「ほとめき」とはこの地方の方言で、「おもてなし」の意)。上野さん、外でなにやら大工仕事をやっている。パンフレットなどを入れる情報ラックをつくっている。これは新しくまちの駅になったところに置いてもらうものだが、予算がないので、暇を見つけて(といっても彼には本当に暇な時間なんてないのだが)ひとつひとつ手作りでつくっているらしい。上野さん、浅黒く日焼けした笑顔でこう語った。
「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗をかけ」。
(2007年10月 地域経済研究会「資本と地域」第4号/書を持って街に出よう 投稿)
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黒崎・まちの駅 
福岡県北九州市黒崎。どんよりとした雲が空を覆う冬のある日、私はこの町を訪れた。
JR黒崎駅のホームから北の空を振り返ると、そこには紅白に塗り分けられた化学工場の幾本もの煙突が、灰色の空に白い煙を吐き出している。改札を出て、国道三号線を覆っているペデストリアンデッキを南の方に進む。目前の小さな駅前ビルの向こうには濃緑の帆柱連山が、低い屏風のように並んでいる。デッキの階段から町を見下ろす。そこには扇形に広がる駅前商店街のアーケードが、二本の大きな口をこちらに向けている。
黒崎商店街。長崎街道の宿場町として生まれたこの町は、太平洋戦争時の空襲で徹底的に破壊されたが、戦後日用品中心の市場(いちば)として蘇り、さらに高度成長期に八幡製鉄所を中核とする北九州工業地帯とともに発展した。やがてデパート、大型スーパーや高級ブランドの店が次々に建ち、昭和40年代、町は買い物客でごった返すようになった。
しかしその繁栄も長くは続かなかった。
鉄冷え。産業の構造転換による昭和50年代末期からの製鉄業の衰退を、地元ではこう呼ぶ。製鉄所のシンボルであった高炉の火も消え、多くの従業員も配置転換で千葉や大分をはじめ全国に散っていった。それは、工場とともに成長していった黒崎の町に大きな打撃を与えた。賑わっていた通りから次第に人が去り、やがて大型スーパーも撤退、いくつかは廃業した。アーケードでも高級品を扱う店から次々にシャッターを下ろしていった。危機感を感じた北九州市は、市街地再生策として平成13年、黒崎駅の西側に12階建て延床面積約9万平米の大型複合商業施設「コムシティ」を、第3セクター方式でオープンさせる。しかしそれはたった1年半で破産し、一部を除き廃墟となった。
「黒崎の町が死んでいく」。
商店主たちはある種の絶望感を感じた。もはや大規模開発でこの町の再生は無理だということを、コムシティの廃業は彼らに突きつけたのである。
「それならば、イベントで」。
もちろん商店街はこれまでも様々な集客イベントを仕掛けてきた。が、どれもいまひとつ活性化につながらなかった。確かにイベントはその時だけは人が集まる。ただ集まった人が商店街での買い物につながっているかというと、そうではない。売っている商品や店自体に魅力がないと、人はそこでモノを買うことはない。しかし、大方の商店主は高齢者で、子どもたちはすでにサラリーマン等別の仕事を選んでいるために、自分の代で店を閉めるつもりになっている。当然、店に魅力を持たせようとか、町を元気にしようとかいった意欲は低い。
つまり商店街自体にも問題が存在するのである。商店主たちの何人かはそのことに気づいていたが、いったい何をどうしたらよいかわからず、ただ悩むばかりであった。
この日私がまず会いに行った熊手銀天街の山中秀夫さんと水口鉄昭さんも、そんな何人かのうちのふたりだった。小学校からの同級生というふたりは、黒崎商店街を構成する9つの商店街組織のひとつ熊手銀天街の会長と広報部長で、この町を元気にするためにはどうしたらよいか、いつも熱い議論を交わしていた。熊手銀天街はとなりの藤田銀天街とともに旧長崎街道がそのまま市場になっていったという古い歴史を有する通りであるが、駅を要とする扇でみると弧にあたる部分であるため、黒崎の中でも特に衰退の著しい通りのひとつである。この通りで山中さんは化粧品店、水口さんは呉服店を営んでいる。
平成16年のある日。ふたりはまちづくりの勉強会で、福岡県の中部にある甘木・朝倉という地域での「まちの駅」の取り組みについて聞いた。「まちの駅」は商店等が来訪者にトイレや休憩場所を提供したり、観光マップ等をおいて地域の情報を提供したりと、様々な「おもてなし」をボランティアで行うといったものである。しかし関係者にいろいろと尋ねていくうちに、それはお金をかけずに町に利便機能を設けようという、単にそれだけではないことをふたりは知った。
「まちの駅」になって一番変わるのは、取り組む側の意識である。商店という私的な空間に、「まちの駅」という公的な空間・機能を持ち込む。すると店長、店員にも町全体のことを考えるという公的意識が芽生えてくる。そこから自主的・主体的な「まちづくり」が始まる。
ふたりは甘木・朝倉地域を訪ね、実際に「まちの駅」に取り組んでいる商店主たちと会話する中で、そのことに確信を持った。
翌年、黒崎にふたつの「まちの駅」が誕生した。「駅長」はもちろん、山中さんと水口さんのふたりである。やがて、熊手銀天街と藤田銀天街にまたがって6つの「まちの駅」が加わった。薬局、果物店、洋服店等であるが、ふたりは仲間を募るのに商店街組織は使わなかった。
「商店街組織だとどうしても全員一致でやることとなり、やる気のない人も嫌々やることになります。まちの駅はそういうものではない。やる気のある人がやりたいからやるものだ、と思うんです」。
山中さんはそう考えて、広く知らせはしたものの反応があるのをじっと待ち、やがて「この指とまれ」の「この指」に集まってきた6人を仲間にすることとした。
そのひとつが藤田銀天街にある「エルの駅」。L寸、つまり大きめの婦人服専門のお店だ。「駅長」は村上弘子さん。静かな感じだが、時折見せる笑顔がとてもあたたかな女性である。
彼女は控えめな性格もあって、今まで商店街の活動に対して消極的だったと語る。まわりから誘われてイベントの手伝いをすることはあっても、自分から何かやろうとは考えたことがなかった。今回の「まちの駅」の話も最初は斜め向かいの呉服屋のおかみさんからの誘いだった。でも「なんだかおもしろそうだったから」やってみることにしたらしい。
そんな彼女の目下の楽しみは、8つのまちの駅で企画中の「おひなさまめぐり」のアイデアを考えること。各自がユニークな「おひなさま」を手作りし、それをそれぞれのまちの駅で展示しあうといったものだ。同じ黒崎のひとつに連なった通りであるとはいえ、熊手銀天街の商店主たちと一緒に何かをやることはなかったそうである。村上さんはそんな毎日を「刺激的」と表現し、次のように語った。
「すぐに町が賑わうなんて思いません。でもまちの駅になって、自分の中に新しい風がふき、少しずつでも成長していけるような気がします。そんなひとが増えていけば、町も少しずつ成長していくのではないでしょうか」。
かつて坂本龍馬も歩いたこの町に、今また新しい風が吹きはじめている。
相変わらずどんよりとたちこめる雲の切れ目から、少し青空がのぞいていた。
(2008年3月 京都大学公共政策大学院「公共空間」第1号に投稿)
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